#001 伴奏ピアニスト

     気付かなくっちゃ かけがえのない事に

     気付かなくっちゃ かけがえのない事に

「となり、いい?」

クラブハウスサンドとトールサイズのカップが乗ったトレーが、あたしの返事を待たずにガシャッと音を立てて置かれる。声楽科の杏子だ。

「午後のレッスン、付き合ってよ」

「あたしだって試験前なんだから…」

言いかけたあたしを遮って、杏子が続ける。

「いいじゃない、自分の練習にもなるんだし。あんたのピアノ、正確だから歌いやすいって人気なのよ」

あたしのピアノが、なぜ声楽科の子たちに人気があるのか。

その理由はあたし自身が一番わかっている。

幼稚園から始めたピアノだけれど、初めは“飲み込みの早い優等生”だった。

それがいつしか“正確だけれど面白味に欠ける生徒”に変わっていった。

感情のこもらないあたしのピアノは声楽科の杏子には重宝らしい。

曰く「自分の声を調律するのにぴったり」だそうだ。

音大付属高校で杏子に出会うまで、これほどはっきりと自分のピアノをジャッジされたことなどなかったが、なるほどここまで言われればかえってすっきりするもので、以来、杏子とは不思議と馬の合う友達になった。

担当教師の安田は四十路絡みのバツイチで、今どき流行らないロン毛をかき上げながら、「遥ちゃんも恋をすれば、もっと情熱的な演奏になるかもね」などと言い放つ。

「それ、セクハラ…」

抗議を試みようと思ったが、残念な容姿にも関わらず「女を見たら口説くのが礼儀。それが音楽家の情熱だ」などと公言して憚らない勘違い野郎に何を言っても始まらないと思い、開きかけた口を閉じた。

手早くスコアをまとめて鞄に入れると、レッスン料の入った封筒を机の上に置いてピアノ室を出る。

ピアノは嫌いじゃない。

元々思ったことや感じたことを人に伝えるのが苦手なのだ。

引っ込み思案なあたしを心配した叔母に勧められてピアノを始めたけれど、どんどん上達するピアノと裏腹に、あたし自身はますます内向的になっていった。

今まで何度かピアノをやめようと思ったことがないわけではないが、けれど鍵盤に指を触れる瞬間、やっぱりあたしはピアノが好きだと実感するのだ。

ただ、発表会であたしよりも評価の低い子たちが、時に笑いを誘ったり、時に思いがけないほど情熱的に奏でて会場の感嘆を引き出したりするのを見るにつけ、あたしは自分のピアノでは誰かを感動させることはできないのだろうと暗澹たる気持ちになるのだ。

———-

自宅に向かう私鉄に乗り換えるためターミナル駅で電車を降りたあたしは、改札を出ると気まぐれに駅ビルに入っていった。

幼い頃に通っていた音楽教室の隣は程よく空いている楽器店で、ギターやキーボードだけではなくピアノも展示してある。

あたしは一台のピアノに向かうと、子どもの頃に従姉妹の家で見た深夜番組のテーマソングを弾き始めた。

従姉妹が留学してしまってからはすっかり疎遠になり、一緒に見た深夜番組が何だったのか、この曲が誰の何という曲なのかさえ尋ねる機会を失ってしまったが、タイトルも知らないこの曲を、何故かあたしは気に入っているんだ。

タンタタンタ タンタタンタ タタタ…♪

普段学校で弾いている時と違って、この曲を弾くとき、あたしは自分が笑顔になっていることを知っている。

     サンダル脱ぎ捨てた かわいいクマのお守り 揺れているよ

あたしが覚えている歌詞はここだけ。

ピアノを習い始めていたから、曲はすぐに頭の中に入ってきた。

     サンダル脱ぎ捨てた かわいいクマのお守り 揺れているよ

お気に入りのフレーズを繰り返していると、ふとあたしのピアノに寄り添うようにギターのフレーズが聞こえてきた。

顔を上げて音の方に視線を送ると、痩せぎすの男の子がニヤニヤとあたしを見ながらギターを弾いている。

ピアノを引く手を止めると、男の子は馴れ馴れしく話しかけてくる。

「やめちゃうのかよ」

「あたしは独りで弾いていたかっただけ。気分が悪いから今日はお終い」

「なぁ、その制服、湊音大の付属だろ? ゲイジュツカのタマゴもブランキーなんて弾くのかよ」

「ブランキー? この曲『ブランキー』っていうの?」

「曲のタイトルじゃねぇよ。ブランキー・ジェット・シティ。バンドだよ」

「バンド? 何か大げさな名前…」

「曲は『SWEET DAYS』。な、ブランキー好きなのかよ」

「ううん。あたしが知ってるのはこの曲だけだから…」

知らない男の子と話すのは初めてだった。

馴れ馴れしい態度も、膝に穴の空いたジーンズも、これ見よがしなピアスも、どれもなんだか似合っていなかった。

鞄を手にとって歩きだそうとするあたしに、馴れ馴れしい男の子が話しかけてくる。

「おまえ、この後、時間ある?」

「もうすぐ試験だから、帰って練習しなくちゃ」

「ブランキーの曲、聴かせてやるよ。俺らこれからバンドの練習だから」

「さっきの曲、弾けるの?」

「当たり前じゃん。俺らのレパートリーだぜ」

そう言うと、男の子はあたしの鞄を持って、さっさと歩いて行ってしまう。

不思議と嫌な感じはしなかった。

———-

連れて行かれたのは古い喫茶店の地下だった。

階段にはビールケースや段ボールが積んであって、あたしが知っているスタジオとはだいぶ雰囲気が違う。

エプロンを着けたまま居眠りをしていたニキビ面の男の子をゲンコツで起こすと、その子は奥を指さして「もう来てるよ」と言った。

薄暗い廊下はパチンコ店の自動ドアが開いたときと同じ、饐えたタバコの臭いがした。

ドアノブに手をかけた男の子が力を入れると、ギシッと軋む音がして分厚いドアが開いた。

途端に室内からタバコの煙が押し寄せてきて、あたしはコホコホとむせてしまう。

部屋の中には金髪の男の子が一人。

パイプ椅子に腰掛けてテーブルに脚を投げ出したままタバコを吸いながら漫画を読んでいる。

テーブルの上には吸い殻が溢れている灰皿と、飲みかけのペットボトルが数本。クシャッと潰れたファストフード店の紙袋の底は油が滲んでいる。

金髪が漫画から目を離さずに「誰?」と一言。

あたしの鞄をテーブルに投げ出すと、馴れ馴れしい男の子が口を開く。

「俺の友達。えーっと、あれ? おまえなんて名前?」

いつの間に友達になったんだろう? 少なくともあたしにそんな覚えはない。

「遥。でも友達じゃない。無理矢理連れてこられただけ。迷惑だったら帰るけど」

「なんだよ、ブランキー好きだって言ってたじゃんか。聴かせてやるよ。キム、叩けよ」

馴れ馴れしい男の子は、そう言ってキムと呼んだ金髪の男の子にスティックを手渡す。

「湊付属のくせにブランキー? 今どき珍しいな。何やる? 『タンバリン』?」

「『SWEET DAYS』。さっき駅ビルの楽器屋でこの子が弾いてたんだ」

「ふうん。いいよ、久しぶりにやろう」

「千絵は?」

「知らね」

「っだよ、しょうがねぇな、うちのリーダーは…。そうだ」

馴れ馴れしい男の子は部屋の隅から薄汚れたキーボードを引っ張ってきて、ふぅーっと息を吹きかけると、舞い上がったホコリを吸い込んで咳き込んだ。

「コホッコホッ…おまえ、えーっと遥。おまえこれ弾いて」

「急に言われても弾けない。スコアはあるの?」

「そんなもんないよ。じゃ、適当に俺たちに合わせて」

「そんなの無理だよ。できない」

「さっき弾いてたじゃんか。大丈夫、大丈夫」

床でのたくっている延長コードの一つにキーボードのACケーブルを繋ぐと、スイッチの隣のパイロットランプが赤く点った。

ドラムセットの前に陣取ったキムが声をかける。

「ケンゴ、ギターがいねぇぞ」

ケンゴと呼ばれた馴れ馴れしい男の子が、「いいよ、ギターは俺が弾く」と言いながら、壁に立てかけてあったギターをアンプに繋ぐ。

「おまえのギターじゃカッコつかない。いいよ、マスター呼んでくる」

そう言いながら、キムは立ち上がって部屋を出て行く。

「マスター?」

「上のサテンのマスター。昔バンドやってたんだ。すげぇ音出すんだ」

「あなたはギターじゃないの?」

「ケンゴでいいよ。俺はベース。リーダーの千絵がギターとボーカル」

ギシッと音を立てて扉が開くと、キムが初老の男の人を連れて戻ってきた。

「またかよ、おまえら。俺は店があるってぇの…」

「大丈夫、客なんて来ないって」

「うるせぇな。これから沢山来るんだよ…って、誰?」

ケンゴが答える。

「遥。俺たちの友達。ブランキーのファンなんだって」

「今どきブランキー聴く女子高生なんているのかよ」

苦笑いしながらケンゴからギターを受け取ると、ストラップをかけるマスター。

マスターが手早くチューニングすると、ドラムセットに座り直したキムがカツッカツッとタイミングをとる。

マスターが聞き覚えのあるフレーズを弾き始めると、ケンゴが歌い始める。

     She is Crying 一人ぼっち メキシコの砂漠の果てで

     サンダル脱ぎ捨てた かわいいクマのお守り 揺れているよ

キムのドラムが重なる。

マスターのギターが勢いを増す。

一瞬穏やかなメロディになったと思うと、一転、全員の音が絡み合ってグイッと立ち上がる。

マスターのソロに、ケンゴの絞り出すようなボーカルが飛び込んでくると、キムがドラムで応酬する。

ベースを弾きながら歌うケンゴが頭を振ると、長い髪の先から汗が飛び散る。

キムの視線が遥に向かって「早く入ってこい」と促している。

遥がおそるおそる耳で覚えたフレーズを弾き始めると、マスターがニヤリと笑うのが分かった。

気持ちがいい。

     SWEET SWEET DAYS 花びらが揺れるように

     SWEET SWEET DAYS くちづけをした二人

     気付かなくっちゃ かけがえのない事に

     気付かなくっちゃ かけがえのない事に

自分が自分じゃなくなったような、短いような、永遠に続くような、そんな不思議な時間だった。

遥は肩で息をしながら、自分の顔が火照っていることに気がついた。

「やるじゃん、遥」

「気持ち良かったろ、優等生」

ケンゴとキムが口々に囃したてる。

「じゃ、俺は店に戻るからな」

満足そうな笑みを浮かべて肩から下ろしたギターをスタンドに架けると、マスターが部屋を出て行く。

「マスターのギター、凄く素敵だった…」

「そりゃそうだよ。マスターはギターマンだからな」

「ギターマン?」

今日は知らないことばかりだ。

「そう、ギターマン。伝説のギタリスト」

ケンゴがゴソゴソと財布をかき回して、よれよれのチケットを一枚取り出してあたしに向かって差し出した。

「やるよ」

「何これ?」

「ライブのチケット。ギターマンのライブ」

「マスターのライブ?」

「違う。ギターマン。そこらのギタリストがしょんべんチビって逃げ出すようなギタリストが集まるんだぜ」

「…なんだかよく分からないんだけど…」

「いいから行ってみな。すげぇから。ギターマン」

———-

家に着く頃には空はすっかり暗くなっていて、ケータイにはお母さんからの着信が22回も記録されていた。

ちょっとヒステリックなお母さんから逃げるように部屋のドアを閉じると、さっきの光景が頭に浮かんできた。

「そうだ」

鞄の中から、ケンゴに手渡されたチケットを取り出す。

よれよれのチケット。

『Guitar ☆ Man LIVE #009』

そう印字されたチケットを眺めながら、もう一度あのおかしな連中に会いたいな、なんて思っている自分に気がついて、それがなんだかおかしくて、あたしはクスクスと声を出して笑ってしまった。


Blankey Jet City – Sweet Days