#004 ザリガニスープ

「お兄ちゃんみたいになったらダメよ」

これが母さんの口癖。

分数の割り算でつまずいてから通信簿に1と2ばかり並ぶようになったオレと違って、アニキは予備校の進学査定テストは全部A評定で、志望大学の工学部は合格間違いなしって担任のお墨付きだった。

気の早い父さんは、センター試験の願書提出と同時に、春からアニキが暮らすためのアパートを都内で契約してきた。

きっと何かの間違いだったんだ。

前の晩から降り始めた雪で電車は遅れに遅れて、焦ったアニキは途中下車すると試験会場までの道のりを走った。

ボタボタに湿った雪が降りしきる中、アニキは傘もささずに走り続けた。

走って走って、あと少しで会場ってとこで、スタッドレスに履き替える少しばかりの銭を惜しんだ馬鹿野郎が運転するファミリーカーが、アニキに向かって突っ込んできた。

アニキはかすり傷だったけれど、ビチャビチャの路上に寝かされていた上に、数年ぶりの大雪で混乱した道路を縫って救急車が現場に到着したのは、事故から30分以上経ってからだった。

アニキは高熱を出して一週間寝込んだ。

退院したアニキは部屋に引きこもった。

初めは心配していた父さんも母さんも、桜の季節が過ぎて物置にストーブをしまう頃になると、アニキに冷たい視線を向けるようになった。

事故の見舞金はアニキの馬鹿高いパソコンに化けて、それまで女っ気の無かったアニキの部屋は、目玉とオッパイがやけに大きなアニメのポスターが所狭しと貼られた。

今、アニキと会話できるのはメールだけ。

父さんも母さんも、それからオレも、アニキとはメールで会話する。

あれから2年が経った。

アニキはオレたちの目を見ない。

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4つ年上のアニキはオレの憧れだった。

正月にじいちゃんの家でやる百人一首は、アニキが小学校に入ると親戚の誰も勝てなくなった。

子ども会の代表も、登校班の班長も、生徒会の会長も、全部アニキの役目だった。

小学2年で25メートル泳げたし、5年生の縄跳び大会では42分も二重跳びを続けて小学校の記録を作った。

優しかったアニキは、ばあちゃんが切ったスイカの大きい方を、いつだってオレにくれた。

ザリガニ獲りが得意で、用水路でバケツ一杯にザリガニを捕まえて、いつも下級生に配っていた。

あるとき突然アニキが言い出した。

「ケンゴ、ザリガニスープっていうのがあるらしいぞ」

アニキに絶対的信頼を寄せていたオレは、内心キモチワリィと思いながらも、そのザリガニスープを作ることに同意した。

水槽の中から一番大きくて真っ赤なヤツを取り出して、ハサミをむしり取って、背中から包丁で割った。

途端にドブ川の匂いが広がって、オレたちは思わず吐きそうになったが、アニキは鋼鉄の意志で料理を続けたんだ。

まだゴソゴソと脚が動いているまっぷたつになったザリガニを水を張った鍋に放り込むと、塩をぶち込み味噌を投げ入れ、「生臭さを消すには日本酒とショウガを入れるんだ」というアニキの言葉に従って、父さんが戸棚の奥にしまっていたナントカって日本酒と、チューブのおろし生姜を一本入れて蓋をした。

数分後、できあがったのはとてもスープなんて呼べる代物ではなかったし、相変わらず強烈なドブの匂いを放っていたけれど、オレたちは鼻をつまんでそいつを喰った。

アニキは「酸味が足りない」と言ってはレモンを搾ってみたり、「こくが足りないな」なんて言ってとんかつソースをかけたりしていたが、結局最後まで人間が食べるような味にはならなかった。

その日の夕方、強烈な下痢に見舞われたアニキとオレは、パートから帰ってきた母さんに泣きながら訳を話して、それから一週間、梅干しとおかゆだけで過ごす羽目になった。

———-

「アニキ、入るよ」

母さんが洗濯したアニキの服を、畳んで持って行くのはオレの役目だ。

ドアをノックしても返事が無いのはいつも通り。

ドアを開けて部屋に入ると、Amazonの段ボールとスナック菓子の空き袋が散らばっている。

段ボールを蹴飛ばしながらベッドにたどり着いて、アニキの服をドサッと置く。

     でっかいうちで〜 ♪

     緑にかこまれて〜 ♪

アニキのパソコンにはインチキ宗教の司祭みたいな格好をしたひょろっと背の高い男が、これまたへんてこりんなギターを抱えて歌っている姿が映っていた。

     育ったおまえには〜 ♪

     何もわからない〜 ♪

「なに、これ?」

「………」

アニキは今じゃぼそぼそと空中に溶けていくような話し方をするから、よーく聴かないと何を言っているのかわからない。

「え?」

「……どんと……」

どんと? なんだそりゃ。

「……この歌……オレのこと……歌ってる……」

アニキの隣に立って、モニターに映っている文字を目で追う。

「ボ…グムボス…?」

「…ボ・ガンボス…」

     自分が誰なのか それさえわからない

     どこからやってきたか 知りたくもないよ

アニキは遠い目をしていて、モニターの向こう側の何かを見つめているようだった。

———-

サボってばかりいた高校は夏休みのうちにやめた。

クラスの連中にあれこれ詮索されるのも面倒だったし、さよならを言いたいヤツもいなかった。

アニキと違って、オレはみんなの前で挨拶したりするのは苦手なんだ。

駅のスタンドにあった無料の求人誌に載っていたファミレスの面接を受けると、その日の午後から厨房で働くことになった。

初めは皿洗いからってマネージャーに言われて、休憩室で先輩を紹介された。

「彼は木村くん。キッチンのことは彼が全部知ってるから、彼の言うことをよく聞いて早く仕事を覚えてね」

痩せているのに妙に汗っかきのマネージャーは、早口でまくし立てると休憩室を出て行った。

先輩って言ってもそいつは同い年で、隣町の工業高校の夜学に通っていた。

「じゃ、よろしくお願いします」

そう言って、一応手を差し出してみたが、そいつはテーブルに広げていた雑誌から目も離さずにぼそっとつぶやくように言った。

「…簡単だから。すぐに覚えられる」

無愛想なんだか照れてるんだかわからないけれど、まぁオレらくらいの年代の男って、こんなもんだ。

ふと、そいつが広げている雑誌のページに、オレは見覚えのある単語を見つけた。

「ボグムボス…好きなの?」

おやっという表情で顔を上げたそいつが、初めて俺の目を見て答えた。

「ボ・ガンボス、な。おまえも好きなのか?」

さっきまでのとげとげしい雰囲気が消えているように感じた。

「いや、アニキが…オレのアニキが好きみたいなんだ。木村くんはよく知ってるの?」

「キムでいいよ。オレが初めて聴いた時には、もうどんとは死んじゃってたけどな。聴くか?」

そう言って、木村くん…いや、キムがiPodをクルクルっていじって、ヘッドホンを差し出した。

     魚じゃないとやってられないよウ〜ポリポリポリ

     魚になってお水に住んでいー気持ち

     魚なんだからウォウォウォウォウォウォ 文句言わせない

     これでいいやウォウォウォウォ 遊ぼうよ魚ごっこ

あの声だ。アニキの部屋で聴いたへんてこりんな男の声だ。

———-

いつの間にかキムとは仲良くなっていた。

といっても、バイトの休憩時間に少し話をする程度だったけれど。

それでもアニキ以外に友だちなんていなかったオレは、なんだかパーッと世界が広がったような気がしていた。

ある日、キムから突然電話がかかってきた。

「弟が熱出しちまったんだ。わりぃけど、シフト代わってくんないかな」

オレはいつだって暇だったし、生まれて初めての友だちからの頼みを断る理由なんて一つも無かった。

それに「弟が」って言うときのキムの心配そうな声を聞いてたら、まだ優等生だった頃のアニキを思い出して、オレはなんだか放っておけなかったんだ。

———-

バイトがはけてから、オレはマネージャーに書いてもらったメモを頼りにキムの家を訪ねた。

繁華街から少し離れた市営住宅は、コンクリの壁に沢山ヒビが入っていて、自転車置き場にはサドルが無かったりパンクしていたりする錆びた自転車が将棋倒しになっていた。

郵便ポストに挟み込まれた紙に書かれた「木村」という文字はインクが滲んで読みづらかったけど、ペンキの剥げた手すりが辛うじてへばりついている外階段を3階まで登って、オレはようやくキムの部屋を見つけた。

チャイムを鳴らしてみたけど返事が無い。

そっとドアノブを回してみると、カチャリと小さな音を立ててドアが開いた。

玄関には見覚えのあるキムのバッシュと、多分小学生の弟の運動靴。それに薄汚れたサンダルとすり切れたグローブが乱雑に置かれていた。

「キム…いるのか…?」

おそるおそる声をかけると、廊下の奥からキムの声が聞こえた。

「ケンゴか?」

ひょこっと顔を覗かせると、照れくさそうに笑いながらキムが言った。

「散らかってるけど、まぁ上がれよ」

流しは洗い物が溜まっていて、リビングのソファには取り込まれた洗濯物が畳まれずに積んであった。

「弟は?」

「熱は下がった。悪かったな、いきなり代わってもらって」

「別に暇だったし構わねぇよ」

「お袋が出て行っちまったから、弟の面倒はオレがみなきゃいけねぇんだ…」

「オレのことはいいから、弟んとこ行ってろよ」

そう言って、オレは途中のコンビニで買ってきたガリガリ君とポカリスエットが入った袋をキムに手渡した。

「わりぃな。弟は今眠ってるから大丈夫。何か飲むか?」

「いや、もう帰るから…」

言いかけたオレを制してキムはテーブルの湯沸かしポットからマグカップにお湯を注ぐ。

「ミロでいい?」

「ミロ?」

オレは思わず吹き出した。

金髪強面のキムがミロ!?

「なんだよ、旨ぇだろ、ミロ」

思い出した。オレのアニキもミロが大好きだった。

   強い子のミロ♪

気づかないうちに口ずさんでいた。

キムがギロッとオレを睨み付ける。

「っだよ、馬鹿にしてんのかよ」

オレは笑いながら答えた。

「いや、もらう。オレも大好きだよ、ミロ」

その時、玄関から声がした。

「いるのかぁ。入るぞ」

入ってきたのは大柄な中年親父だった。

「ん? 友だちか?」

「バイト先の友だち。ケンゴ」

「そうか、おめぇにも友だちができたか」

オレが会釈すると中年親父は抱えてきたスーパーの袋をドサッとテーブルに置いた。

「おにいは仕事見つかったか?」

「おにいって呼ぶなよ、いい歳して。…まだ見つからない。今日もバイト行ってる」

「そっか。こんな世の中だからな…。まぁ焦らずにやんねぇとな…ほれ」

そう言って、中年親父は懐から取り出した茶封筒をテーブルに放り出す。

「…親父が…もう受け取るなって…」

引きつった表情でキムがつぶやくと、おどけた仕草で中年親父が答えた。

「兄弟なんだからよ。オレはハンチクモンの駆け出しの頃、おめぇの親父に沢山世話になったんだ。気にするこたぁねぇんだよ」

「…でも…」

「おにいも相変わらずだなぁ…。これはおにいにやるんじゃねぇんだよ。カワイイ甥っ子たちに小遣いだ。いいからとっとけ」

なんだか居心地が悪くなって椅子から立ち上がったオレに、中年親父が話しかけてきた。

「お兄ちゃん、こいつこんなだけど正直で優しいヤツだから。これからも友だちでいてくれな」

「余計なこと言うなよカズ兄…」

慌てて口を挟もうとするキムの言葉を遮って、オレは言った。

「知ってます。キムがそれでいいなら、オレはずっと友だちでいたいです」

中年親父の顔がパァッと輝いた。

キムは真っ赤な顔で俯いた。

———-

キムの弟はすっかり良くなって、あの日をきっかけにオレは度々キムの家に遊びに行くようになった。

キムの弟とキムとオレの三人で、キムの家でミロを飲んだ。

キムは弟が眠ってから、自分の家族のことをぽつりぽつりと話すようになった。

お父さんはどこかのメーカーに勤める優秀なエンジニアだったらしい。

けれど、一緒に働いていた派遣社員の仲間が解雇されると聞いて、会社に抗議したそうだ。

閑職に追いやられたお父さんは、2ヶ月後、辞表を出した。

「無駄に正義感の強い親父を持つと、家族は堪らねぇよ」

キムはそう言って寂しそうに笑う。

「親父は、仕事なんてすぐに見つかるって言ってたし、オレたちもそう思ってた。

 だけど、そう上手くいくもんじゃねぇよな。

 半年経っても仕事が決まらなかった親父は、少しずつ焦り始めたんだ。

 一緒にリストラされた仲間と一緒に会社を作るんだって言い出して、退職金と貯金を仲間に預けたら、そいつは集めた金を持っていなくなった。

 親父はクルマを売って、家のローンも払えなくなって、そしたら母さんがいなくなった」

オレは黙って聞いているだけだった。

「どこからか聞きつけたカズ兄がひょっこり現れたんだ。まとまった金が必要だったら自分に言えって。

 親父は首を縦に振らなかった。弟の世話になれるかって怒鳴りかえした。

 でもカズ兄は、懲りずに何度もうちに来たよ」

空っぽになったキムのマグカップに、オレは黙ってミロを作り足した。

「カズ兄はギターマンなんだ。なぁ、知ってるか? ギターマン」

オレは首を振った。ギターマンなんて聞いたこともなかった。

「ギターマンは沢山いるんだ。昔大活躍して、今はそんなに知られていないけど、

 でも今でもギターを弾いたらファンがいっぱい集まって泣いちゃうくらい凄いプレイをするんだぜ」

———-

オレたちの町にいつもの年よりも早い初雪が降ったある日、キムから電話がかかってきた。

「ケンゴ、今晩暇だったらライブに行かないか?」

「ライブ?」

「ギターマンのライブ。カズ兄がチケットくれたんだ」

「叔父さんがギター弾くのか?」

「そう。実はオレもカズ兄のギターって聴いたことないんだ」

「いいよ、行こう。オレも叔父さんのギター、聴いてみたい」

オレたちはバスと電車を乗り継いで、叔父さん、いや、ギターマンが演奏するライブハウスにたどり着いた。

詰めかけた観客は思っていたよりも親父度が高くて、半分くらいはキムの叔父さんと同世代に見えた。

それよりも驚いたのは、ギターマンなんて正体のわからないライブに、こんなに沢山の人たちが集まっていることだった。

ライブはいつの間にか始まっていた。

ステージに現れた中年親父がギターのねじの所をいじりながら、ベンベンって音を出して、何人かがそれを繰り返しているうちにドラムの前に座った親父がカッツカッツって棒を鳴らしたと思ったらいきなり、本当に突然音が溢れた。

それは圧倒的だった。

観客たちが大声で叫んでいた。

ギターマンたちも叫んでいた。

オレは大きな波にグイッと持ち上げられたかと思うと、急に重力を失って真っ逆さまに落ちていった。

そしてもう一度地面に激突する寸前で大きな波に身体ごと持ち上げられるような感触を、オレは繰り返し味わっていた。

しばらくして新しく演奏が始まると、その曲は聞き覚えのあるものだった。

     でっかいうちで

     緑にかこまれて

いつかアニキの部屋で聞いたあの曲だ。

     育ったおまえには

     何もわからない

優しかった頃のアニキと、部屋で独りぼっちで俯いているアニキが、代わるがわるオレの頭の中に現れる。

弟想いのキム。仲間に裏切られたキムのお父さん。そんなお父さんを“おにい”と呼んで慕っているギターマンの叔父さん。

何もわからなかったのはオレだ。

でも、今だったらわかる気がする。

     そのうち自分の家が

     真っ赤に燃える頃

     その理由がわかるさ

気がついたら、オレは泣いていた。

そしたら泣いているオレの首にガシッと腕を回して、キムがこう言ったんだ。

「ケンゴ。オレとバンドやらねえ?」

———-

最近、アニキが部屋で聴いていた「ボ・ガンボス」を聴くようになった。

なぁ、アニキ知ってるか?

ガンボってのは、ニューオリンズのザリガニスープのことらしいよ。


でっかいうちで – どんと