「受かってるはずないか…」
自信なんてなかった。
もしかしたら、奇跡が起きて、神様の気まぐれで、何かの間違いで、運命のイタズラで…なぁんて思わなかったかと言えばウソになるけど、まぁ落ちて当然だった。
千絵が音大付属なんて縁もゆかりも無い高校を受験しようと思ったのは、ただひたすら、その制服に憧れていたからだ。
杢グレーのジャケットにお揃いのスカートはちょっと丈が短めで、くすんだワインレッドのネクタイと黒いストッキングが上品なアクセントになっている。
進学塾へ行く途中のターミナル駅でその制服姿の生徒たちを目にした千絵は、周囲の反対をものともせず、最後にはお年玉貯金を崩して自腹で受験料を振り込んで強引に願書を出した。
中学生活をバレー部に費やした千絵に音大付属高の推薦が取れるはずもなく、文字通り徒手空拳で挑んだ結果、玉砕した。神様は気まぐれを起こさなかった。
———-
「ダサい制服…」
ブレザーの丈といい金ボタンの位置といい、何もかもが微妙にダサいのだ。
少しだけ細身の似たような柄のネクタイに変えてみたり、ブラウスの襟を大きめに開いてみたり、ブレザーの袖口からブラウスの袖を覗かせてみたり、スカートを短く改造してみたりと、思いつくままに改善を試みたが、どれもこれも中途半端な上に、ことごとく生活指導教諭に発見されてしまう。
元々何事にも熱くなりがちな千絵の魂に火がついた。
生徒手帳に書いてある校則と丸一日にらめっこすると、あることに気がついた。
登下校に用いる靴は、黒、または茶色の革靴とする。
黒か茶色の革靴だったらいいのか…。
千絵は姉の部屋に忍び込むとパソコンを立ち上げた。
通販サイトにアクセスすると、さんざん悩んだあげく一足のブーツをカートに入れ、コンビニで買ってきたギフトカードのIDを入力した。
すぐに千絵のケータイにメールが届く。
「ご注文ありがとうございます」
すぐさま本文の「ご注文の確定」のリンクにアクセスすると、再びメールが届く。
「ご注文いただいた商品の発送は…」
「やった…」
千絵はガッツポーズでほくそ笑んだ。
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届いた黒いエンジニアブーツは想像以上に制服に似合っているように思えた。
千絵の家はスナックを営んでいる。
父も母も看板娘の姉も、千絵の登校時間にはまだベッドの中だ。見とがめられる心配はなかった。
店のカウンターで玉子かけゴハンとインスタント味噌汁の朝食を済ませると、千絵はガラガラとシャッターを開けた。
太陽が眩しい。なんて清々しい朝なんだ、と千絵は思った。
新しい朝が来た 希望の朝だ♪
思わず口ずさんだのはラジオ体操の歌だった。
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学校へ向かうバスの中で、千絵のブーツに気づいたクラスメートたちが話しかけてくる。
「うわ、思い切ったねー」
「今日は反省文じゃ済まないかもしんないよー」
「よくやるよ。懲りねぇなー森田も」
足下をのぞき込んでは口々にありがたい意見を述べてくれる友人たちに動じること無く、千絵は制服の内ポケットから颯爽と生徒手帳を取り出した。
「ふっふっふ、みんなは気づいていないかもしれないけど、校則にはこう書いてあるんだよ。『登下校に用いる靴は、黒、または茶色の革靴とする』って」
水戸黄門の印籠よろしく生徒手帳をつきだして笑う千絵に、友人たちはあきれ顔だった。
「おまえのその情熱はどこから来るんだ?」
「チャレンジャーだよな…千絵って」
「ハッハッハッハッハ!」
うんざりした顔の友人たちをよそに、千絵は高笑いが止まらなかった。
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校門で待ち構える指導教諭を予め考えていた屁理屈で論破すると、千絵は意気揚々と校舎内を闊歩した。
他のクラスの生徒までが千絵の教室を覗いてはひそひそと話していた。
「アホだ」とか「よくやるわ」とか、親しい友人たちの台詞すら、千絵には賛辞の言葉だった。
けれど、気分が良い時間は思いの外早くエンディングを迎えそうだった。
放課後、千絵を待ち構えていたのは評判の悪い先輩女子グループの面々だった。
「森田、おまえなに独りではしゃいでんだよ」
「ルールは守らなきゃいけねぇって、小学生だってわかんだろ」
「タレントにでもなったつもりかよ」
中学の三年間、朝から晩までバレーボール部で鍛えられ、よく食べてよく眠る健康優良児そのものだった千絵は現在身長172cm。
帰宅部として過ごしている今でも、店の手伝いで重たいビールケースやらサーバーやらを運ぶのは千絵の役目だ。
青白い顔をした細眉のギャルサー崩れなんぞにいくら睨まれても少しも怖くなかった。
千絵は大きなため息をついた。
人数を頼りに脅した後輩が、涼しい顔でため息をついたことが気にくわなっかたのだろう。
「こいつ、痛い目に遭わないとわからないんじゃね?」
なんという時代遅れ。
なにかのパロディのつもりなのかとも思ったが、相手の表情は真剣そのものだった。
いくらガタイがいいと言っても、取っ組み合いの喧嘩なんて保育園以来していない。
悲鳴を上げるのもみっともないし、でも万が一カミソリなんて持ち出されたらやっかいだ。
気がつくと千絵は馬鹿でかい声で歌っていた。
あなたのために 守り通した女の操
今さら人に 捧げられないわ
「なんだこいつ?」
千絵を取り囲んだ連中が戸惑っているのがおかしくて、千絵はますます声を張り上げた。
あなたの決して お邪魔はしないから
おそばに置いて ほしいのよ
お別れするより 死にたいわ
女だから
『なみだの操』は父親の十八番だ。
店の客にのせられて、「そうですかぁ。じゃ、一曲だけ」なんてやに下がりながらマイクを握るときはいつもこの曲だ。
千絵は父親よろしく、たっぷり小節を回して歌い上げた。
気がつくと千絵の歌声を聞きつけた生徒たちが、窓から顔を出して様子をうかがっていた。
続けて2番を歌おうと千絵が思い切り息を吸い込んだとき、パチパチという拍手が聞こえた。
振り返った千絵の目に映ったのは小柄な教師だった。
「すごい小節だったなぁ」
拍手をしながら現れた教師に、先輩グループが次々に抗議の声を上げる。
「先生からも言ってくださいよ」
「そうですよ。こいつ堂々と校則違反してますよ」
「校則?」
教師の登場で自分たちに分があると思って威勢良くなった先輩たちに向かって、千絵は颯爽と生徒手帳を取り出して再び朝の屁理屈を披露した。
「ふざけんな!」
「馬鹿にしてんのかよ!」
口々に騒ぎ立てる生徒たちを制して、教師はこう言い放った。
「面白い子だね、キミは。確かにエンジニアブーツで登校してはいけないという校則はないな。キミの黒い革靴、なかなかイカしてるよ」
———-
教師は音楽担当で、今年赴任してきたばかりだという。
「私は長沢といいます。いや、面白いものを見せてもらいました」
そう言って笑う長沢に、千絵も照れながら自己紹介した。
「1年2組の森田千絵です。先生は変わってますね」
「私が変わってる? キミほどではないと思いますが」
「だってエンジニアブーツですよ。普通、先生だったら怒りますよね」
「普通ねぇ。おっかない先輩たちに囲まれて『なみだの操』を大声張り上げて歌う生徒の方が、よほど普通ではないと思いますが」
そう言ってプッと吹き出した長沢につられて、千絵もクスクスと笑った。
そこにガラガラッとドアを開けて、ギターケースを抱えた男子生徒が入ってきた。
「先生、ちょっと練習つきあって」
「お、もうそんな時間ですか。今行きます。そうだ、森田さん。あなたも一緒に来ませんか?」
「あ、おまえ今朝エンジニア履いて目立ってた1年。何かやらかしたのか?」
「いいから、いいから。さぁ、森田さん、行きましょう」
長沢は軽音楽部の顧問だった。
先ほどの男子生徒が部長で、他にも数人の生徒が所属しているらしかったが、そもそも軽音楽部なんてものがあったことさえ千絵は知らなかった。
部室に入ると、既に何人かの生徒が思いおもいに自分のパートを練習していて、長沢を見つけると親しげに言葉を交わしている。
「先生、その子は?」
「彼女ですか? 彼女は森田さん。怖い先輩たちを迫力のボーカルではね除ける素晴らしい喉の持ち主です」
「…やめてください先生…」
真っ赤になって俯く千絵を見ていた部長が千絵に尋ねる。
「おまえ背ぇ高いな。ボーカルなのか?」
「いや、ボーカルとか、そんなんじゃなくて…」
「この子、ボーカルだったらカッコよくない?」
話を振られたカピバラ似の男子生徒が、じろじろと千絵を眺め回しながら立ち上がる。
「悪くないよな。ついでにギターも弾かせちゃったらいいんじゃない?」
「いや、ホントに無理ですから、ボーカルとかギターとか…」
「ジャンルは何? なぁ、ちょっと歌ってみねぇ?」
「いや、ジャンルとか、ホントわからないですから…」
「ね、ギターマン、どう思う?」
ギターマンと呼ばれて長沢が顔をしかめる。
「福田くん、学校ではギターマンと呼ばない約束でしたが…?」
「あ、ごめんなさい先生。でも、いいアイデアだと思わない? ごついエンジニアも似合ってるしさ」
ギターマン?
千絵の頭にはてなマークが浮かぶが、それを確かめる間もなく長沢が相づちを打っている。
「いいかもしれませんね。森田さん、どうですか? さっきの歌を披露してみては」
「えーっ!? 無理です。絶対無理!」
「そう言わずに。さっきのはなかなか良かったですよ。堂々とブーツで登校する度胸も素晴らしい。さぁ、歌ってください」
どうやら長沢は、嫌みでも何でもなくて本気で言っているらしい。
それに期待に溢れた軽音楽部の面々の表情を見ていると、千絵はもはやこの場から逃れられないことを悟った。
仕方がない。
千絵は思い切り息を吸った。
———-
どうせ笑いものだ。そう思って目をつむって思い切り小節を回して歌った。
けれど、いつまで経っても笑い声が聞こえない。
そして、サビに入ろうという絶妙のタイミングで、歪んだギターの音が響いた。
思わず目を開けた知恵の目に映ったのは、ギターを抱えた長沢の姿だった。
歌うことを忘れてぽかんと口を開けている千絵をよそに、生徒たちがそれぞれの楽器で演奏に加わる。
楽器を持たない生徒たちは、歓声を上げて盛り上がっている。
ギュイーンッコ! ダバダバダバダバ! ダ・ダ・スカッチャッ!
「なにこれ…?」
「森田さん、続けましょう!」
グイングインとギターをかき鳴らしながら、長沢が千絵を促す。
「新品のエンジニアが泣くぜ−。歌え、1年!」
部長の福田も気持ちよさそうにベースを弾きながら叫ぶ。
何がおきているのかわからなかったが、とにかく『なみだの操』のイントロをアレンジして繰り返していることだけはわかった。
長沢がギターのネックを振って千絵にタイミングを伝える。
千絵はいつの間にかわくわくしていた。
あなたの匂い 肌に沁みつく女の操
棄てられたあと 暮らしてゆけない
私に悪いところが あるのなら
教えてきっと 直すから
恨みはしません この恋を
女だから
こんなに大きな声を張り上げたのは、バレーボール部の引退試合以来だった。
あなたにだけは 分かるはずなの女の操
汚れを知らぬ 乙女になれたら
誰にも心恋りは あるけれど
あなたを 疑いたくない
泣かずに待ちます いつまでも
女だから
たっぷり小節を回した。
みんな口々に「イェーッ!!」だとか「ウォーッ!!」だとか好き勝手に盛り上がっている。
千絵は一試合終えた時のような充足感を覚えた。
———-
「いいなー。カッコ良かったぜ」
「うん、ちっと低くて掠れてるけど、イイ声だよな」
「おまえ、うちの部に入れよ」
「いきなり振られてあんだけ歌えりゃ上等だよな」
そうでなくても元々ノリがいい上に熱くなりやすいのが千絵だ。
「わかった! 先輩たちと武道館を目指しますっ!」
思わず吹き出した長沢に向かって、先ほど聞きそびれていたことに気づいた千絵が尋ねた。
「先生、ギターマンってなんですか?」
途端に顔をしかめた長沢は、視線の隅に捕らえた部長を睨み付ける。
「福田くん…」
慌てた部長が答える。
「んーと、つまりギターマンっていうのは…」
「ギターマンっていうのは?」
「…秘密っ! とにかく今はまだ秘密だ。入部したばっかりの1年にはまだ教えられない」
ぶすっと膨れっ面の千絵に、部長が続ける。
「まぁ、ギターマンってのはすげぇんだ。おまえがちゃんと正式に部員になって部費を納めたら教えてやる」
「なんですか、それ?」
「いいから! だけど、ギターマンのことは絶対校内では話すなよ。ってか、校外でも話しちゃだめだ。いいか?」
「なんだかよくわからないけど、まぁそれでいいです。なんかデビルマンみたいで面白いし」
「デビルマンですか…」
声に振り向くと長沢が笑っていた。
「じゃ、次はデビルマンでも演りますか?」
生徒たちからわーっと歓声が上がった。
千絵はちゃっかりマイクスタンドの前に陣取っている。
「やる気満々じゃね? おまえ」
部長がつぶやいた。