地球温暖化に懐疑的

雑感

もう随分と長い間、僕たちは地球が人為的な環境破壊によって温暖化が進行しているという喧伝を耳に(或いは目に)してきた。マスコミはもとより、政府も盛んに温暖化によって訪れるであろう危機を煽ってきたが、地球の温度が上昇しているという話には諸説ある。

そもそも地球には寒冷期と温暖期があり、現在は温暖期、或いは間氷期の終わりに差し掛かっているという説もある。

一方で海水温が低下しているというデータもあり、海水温の低下と地球の温暖期、寒暖期がどのように影響しているのかは、まだきちんとした理論は確立されていなかったように記憶している(既に紐付けされた理論が確立していたらごめんなさい)。

短期的な気温上昇については太陽の黒点活動に大いに影響されるというデータがあり、11年周期で変動するそれによって0.1%ほど太陽の放出エネルギーに変化をもたらすという。

2006年に元アメリカ合衆国副大統領のアル・ゴアが発表した「不都合な真実」は、人類の環境破壊が地球温暖化を加速するというものだ。なるほど、キリマンジャロの氷床から採掘されたCO2濃度と気温データの比例グラフを見る限り、これまでさまざまな形で(岩盤や海水、氷床、樹木などなど)に閉じ込められてきた二酸化炭素を、我々が大気中に解き放ったことは、地球温暖化の一因と考えるのは自然だろう。

温室効果ガスが地球温暖化をもたらす一因だとして、それでは我々人類社会が存在しなかった場合、つまり人為的な要因が皆無であった場合に、地球はこれまでも、これから先も、ずっと同じ温度だったのかと言えば、決してそんなことはない。先に述べたように地球そのものの温度変化に加えて、太陽から受け取るエネルギー量の変化もある。太陽から受けたエネルギーを宇宙に放出することを延々と繰り返してきたのだ。地球はこれまでも寒冷期と温暖期を行ったり来たりしていたのだ。

そして現在の地球はその周期の中で、どの辺りに位置しているのか。

これから温暖期に向かうのであれば、温室効果ガスの排出はそれを加速する方向で働く。逆に寒冷期に向かうのであれば、それにブレーキをかけることになる。

野生生物のそれと比較すれば、我々人類の生存可能な温度レンジは比較的振り幅が大きいかもしれないが、衣服や冷暖房機器の力を借りなければ、マイナス50℃の世界ではバナナで釘を打つ前に身体が動かなくなるだろうし、体温が40℃を越えれば意識障害を起こす。42.5℃で細胞は死滅する。

現在の地球は、我々人類にとって極めて快適な環境なのだとも言えるし、逆に今の環境に適していたから我々が適者生存の法則に則って発展してきたのだとも言える。

地球の温度が変わることで何が起こるのか。

先ほど適者生存と書いたが、その環境を好む生物が生息域を広げるということだ。

赤道直下の熱帯に生息していた生物たちは、すでに極地方に向かって南進、北進を開始している。船積みのコンテナの片隅に紛れ込んだ熱帯の昆虫は、それまでは凍え死んでいた日本の港で繁殖している。それらの生物が媒介する熱帯特有の感染症なども、今後は罹患率が増えていくのだろう。

大気温の上昇は、それに適した生物の活動域を拡張する。海水温の低下も、また然りだ。光の届かない深海で熱水噴出孔に集まって生息している甲殻類がいる。彼らは体内のバクテリアからエネルギーをもらうことで生きている。嫌気性細菌は酸素を使わずにエネルギーを取り出すし、太古の大気にはそもそも酸素は存在しなかった。生物の繁栄は、適者生存の法則から逃れることはできない。地球環境は常に変化していて、アウストラロピテクスの出現から現在までの500万年は、我々人類にとって都合の良いそれだったということだ。

さて、地球温暖化だ。

仮に本当に地球が温暖化しているとすると、それは我々人類にとって都合の悪い環境に変化するということに他ならない。もちろん寒冷化も同様で、人類は環境の変化にすこぶる弱い。

それではアル・ゴアが件の発表する前はどうだったのか。

それまでも地球の環境破壊について警鐘を鳴らしていた人たちは決して少なくなかった。けれど、現在のように政府やマスコミが音頭をとって環境破壊がもたらす脅威を市民に煽りはじめたのは21世紀になってからなのではないか。

では何故、それまで沈黙していた政府・マスコミがこぞって喧伝し始めたのか。

僕はそこに利益があるからだと考えている。

それまで原子力発電は、将来枯渇が予想される石油エネルギーに取って代わるものとして広められた。けれど、いくら掘っても石油は無くならない。世界中の富を独占している人たちは、濡れ手に粟の原子力発電を邁進したい。そうしていつの頃からか、枯渇する石油の代替策ではなく、二酸化炭素を排出しないクリーンエネルギーとして、それまでとは扱いが変わった。

石油エネルギーの代わりでないならば、無理筋の高速増殖炉に血道を上げる必要も無いのだとばかりに、使用済み核燃料はMOX燃料に姿を変えて、せっせとプルサーマル炉に架装されている。

つまり、地球温暖化説も、その原因が二酸化炭素であるという言説も、核推進によって利益を享受する人々にとって、非常に都合が良い代物なのだ。

プラスチックの使用が温室効果ガスの待機放出を加速しているという。小泉進次郎の言葉を借りるまでもなく、その原料は石油だ。

さて、プラスチックの原料となるのは、採掘された原油のどの部分で、それは何パーセント程度なのだろう。

採掘された原油は精製されてガソリンや重油、ナフサなどになる。残滓はアスファルトとして利用される。この中でプラスチック原料だけが不要になったと言って、それだけを取り出さないなどということはできない。プラスチック原料だけを地中に埋め戻すことはできないのだ。

例えば欧米方式の捕鯨で、鯨油だけを摂って他の部位は廃棄していた時代があった。鯨なら海洋投棄してしまえば他の生物の食糧になるだけだっただろうが、石油の場合はそうはいかない。プラスチックの使用削減ではなく、原油の採掘量そのものの見直しが必要なのだ。

そして原油の採掘量見直しは、アメリカのように資源を有しながらも産油国との外交に積極的な国にとって都合がいい。サウジアラビアのような親米国を除くと、産油国の多くは正常不安な王国が多い。もっともこれは西側の介入で不安定を強いられている側面もあるのだが、いずれにせよ石油メジャーからの利益配当は、大国の政治家を操るには十分すぎるほどなのだろう。

さて、プラスチック原料を削減すれば、それに伴ってガソリンなどの燃料の供給も低下する。昨今の低燃費車開発スピードは凄まじく、自家用車に限れば需要の低下は当然起こるだろう。

では、それ以外は?

ウラン鉱石を採掘するために使われる燃料、それを輸送するための燃料、精製するための燃料。これら全て、現在は化石燃料を用いて行われている。

航空機のエンジンが電化されるまでは、まだ相当時間がかかるだろう。

近距離のコミューターを除いて、EV普及のネックになるのは充電インフラの普及だ。

数十秒で済む液体燃料の補給と異なり、現在主流のバッテリーへのそれはそれなりに時間を要するため、長時間の駐車が許される用地の確保と大電流を効率良く充電する電力確保を考慮しなければならない。

これによって浮かび上がってくる一つの課題として、深夜の電力需要が極端に増す可能性がある。

燃料が少なくなれば移動先で気軽に補充できるガソリンや軽油と異なり、一旦エンプティになれば充電に時間がかかるのがEVだ。

近所の買い物程度の使用に限定し、小まめに充電しながら使う場合であれば問題はないかもしれないが、例えば1日で東京と大阪を往復するような使い方の場合や、レジャーで遠出する場合など、走行開始時点で満充電にしておきたいと考える際には、クルマを使用しない夜間に充電しようと考えるのが普通だろう。特に週末のレジャーに使いたいオーナーたちによって、金曜日の深夜はグッと需要が高まるだろう。それが暖房が必要な冬季だったり、逆に冷房必須な夏季であれば、それらの需要と相まって電力逼迫の可能性もある。また現在は安価な深夜電力を用いている揚水発電は、採算が合わなくなる可能性が拭いきれない。営利企業である以上、採算度外視で電力供給を強いることはできないし、結果として電力料金の値上げもあり得るのだ。

また一般の月極駐車場も充電インフラの拡充が必須となるはずだ。使用していない間に充電できなければ、EVは無用の長物でしかない。

そして、それらを解決するためにはベース電源のキャパシティを拡大する必要があり、東日本大震災の教訓から一旦は徐々に撤退の方向に舵を切っていた原子力発電が、再び浮上してくる可能性がある。

先にも述べたが、原子力発電に必要なウランの採掘、輸送、精製は化石燃料を用いて行われている。廃炉の際に必要な化石燃料の総量などは、恐らく試算すらできないのではないか。オール電化が化石燃料の使用削減になるという言説は疑った方がよいと考えている。

我々が日常的に使用している衣服はもちろん、医薬品や肥料など、石油から作られるものは枚挙に暇がない。全世界を襲ったコロナウィルスは終息の気配がない。我々が日常的に使用するようになったサージカルマスクは、楮(こうぞ)を漉いて作るわけではないのだ。これらの中でプラスチック原料だけを使用削減することは不可能であり、減らすのなら全ての化石由来製品をバランス良くということになる。

それでは何故プラスチックだけが標的になったのか?僕は単純にわかりやすい(騙しやすいと言い換えることもできる)からではないかと考えている。

プラスチック原料の使用削減のためには、既に作り出されてしまったプラスチック製品はできるだけ長期間使用することが望ましい。新品を作らないで済むということは、確実に使用量を減らせるはずだ。それなら何故我が国では、鉄とプラスチックの塊である自動車を長期間使い続けると罰金が課せられるのだろう。新たに作らずに済むものに関しては、長期使用を前提とした政策とセットで考えた方が効率が良いはずだ。

一方で3Dプリンターは日々進歩している。

既にちょっとした納屋程度であれば3Dプリンターで作る事ができる世の中だ。内部構造を細かく設定できる3Dプリンターの特質から、いずれ軽量な構造材を生み出すようになるだろう。軽量で強固な構造材は輸送費の削減、輸送時の燃料削減にも直結する。5Gで送信されたCADデータを用いて、建設現場に設置された大型の3Dプリンターで構造材を射出するという時代が来るかもしれない。輸送の際に生じる二酸化炭素を削減するという部分だけを見れば、3Dプリンターの進歩は地球温暖化防止策として待ち望まれるだろう。

これまでは実現が困難だった構造。例えばトラス構造が一体化した橋脚や、内部が一体型のハニカム構造になった翼など、軽量でありながら必要な強度を持つ部材、或いは部材ではなく一体型の仕上がりそのものをプリントできる可能性を秘めている。

さて、ここで用いられる3Dフィラメントの材料はなんだろう?

小泉進次郎は知らないかもしれないが、これはプラスチックだ。

少し話題が逸れるが、僕はこの先、3Dプリンターが世の中を変えていくと考えている。

現在のコピー機のように、公共機関やコンビニエンスストアに3Dプリンターが設置される日がくるのではないか。以前は街中の至る所で見かけたDPショップのような形態で普及するかもしれない。

特別な意匠を施した家具などは別として、オフィスチェアなどはダウンロードで購入したCADデータを入力して、ホームセンターのプリンターで出力するという時代が来るかもしれない。現代の100円ショップで安価に販売されているプラスチック製品は、リビングのタブレットで選んで自宅のプリンターでプリントするという購入形態になるかもしれない。陶芸家の作品展で陶器を選ぶように、ブティックで服を選ぶように、ネットワーク上のギャラリーで選んだプロダクトのデータを購入し、自宅でお気に入りのデザインの皿や話題のアクセサリーをプリントする時代がくるのだ。

フィラメントを吐き出すノズルのコントロール技術が進歩すれば、現在のようにプリントサイズが筐体サイズに左右されることがなくなるかもしれない。小さなプロジェクターがスクリーン上に巨大な像を結ぶかの如く、ノズルを備えたドローンが中空に原寸大・自由の女神をプリントする日がやってくるかもしれない。

プラスチックに代わる3Dフィラメントが登場するまで、これらのイノベーションを実現するためにはプラスチックに頼るしかないのだ。

閑話休題。

ここまで書いてきたように、僕は代替え品の登場までは、プラスチックの需要が減ることはないと考えている。必要なのはプラスチックの再生技術なのではないか。

生分解性プラスチックが開発されたように、一定の条件下で素材に戻すことのできるプラスチック。もちろん用途によってその条件は様々だろうが、素材に戻せるということは、新たに化石燃料を使用せずに済むのだ。

需要の削減と並行して、これらの開発に国を挙げて投資することが望ましいと、僕は考えている。

使い捨てプラスチックの使用を削減することは当然だとしても、例えば医療現場で用いられるディスポーザブル器具は減らせない。プラスチックスプーンやレジ袋だけを悪者にする風潮は、我々国民の目を欺く思惑があるのではと疑っても仕方がない。

地球は本当に温暖化しているのか。

温暖化しているのが事実だとして、その要因に占める二酸化炭素排出量による影響はどのくらいなのか。

二酸化炭素排出量の削減は化石燃料の使用量削減以外に方策はないのか。

同じ量のエネルギーを取り出すために使用する化石燃料の総量(採掘、精製、輸送はもとより、施設の建設に使われる化石燃料や、解体・廃炉に必要なそれまでを含めた場合)は、石油や石炭を用いた発電と原子力発電ではどれほどの違いがあるのか。

エネルギー需要以外の原料としての需要を削減するために、レジ袋やプラスチックスプーンを無くすことが、どれだけ効果があるのか。小容量のペットボトル普及についての言及がないのはなぜか。

公明党が「打倒!CO2!」というポスターを掲げたことがあった。

僕らのカラダは炭素で出来ている。