トランスジェンダーについて、今の僕が精一杯考えられること。#001

雑感

党の公式アカウントでトランスジェンダーと女性スペースの問題を取り上げた。

その時点で僕が考えられることを一所懸命に、出来るだけ丁寧に書いてポストした。その結果として、使用した単語についての指摘はあったものの、概ね伝えたいことは伝えられたのだと思っていた。けれど性自認について、党のポストを僕が書いているということを知っている方から「性分化疾患」というキーワードを知らされた。

僕がまるで知らなかったというか、意識したことが無かった分野の話題に戸惑ったけれど、トランスジェンダーと女性スペースについてをポストした以上、ここを素通りするわけにはいかないと感じた。ちょうど同じようなタイミングで日本性分化疾患患者家族会連絡会のアカウントからコメントが届いた。そしてもう一つ。トランスジェンダーの方からの、僕が用いた「性的嗜好」という単語がトランスジェンダーを貶めているという指摘がずっと気になっていた。

そもそものポストの趣旨としては、トランスジェンダーの問題に対して安易に女性に負担を押しつけて解決とするのではなく、誰もが不具合を強いられることのない社会を目指そう、そのためにもっと考えようというものだった。だとすれば、そのようなポストをした僕自身が今よりももっともっとこの問題について掘り下げていかなければ不誠実だろう。

ある人から「この問題の界隈は嘘つきが多いから」と忠告された。
嘘つきは困る。嘘をついて他人を惑わすことを楽しんだり、詐欺的な手法で他人を騙して利益を得たりすることを僕は良しとしない。

けれどトランスジェンダーの人たちには、嘘をつかなければならなかった事情もきっとある。
偽らなければならなかった理由がある。
そうだとすれば、「あのアカウントは嘘つきだから」と無視してはいけないのだと思ったのだ。

シスジェンダーで異性愛者の僕がいくら想像しても限界は低い。けれど低いなりに考え続ければ、今よりもう少しましな考えになる可能性はある。多分。

なので、今回はトランスジェンダーの人たちが少しでも生きやすい社会を想像してみる。

ディバーシティが声高に叫ばれる世の中になったけれど、そこに含まれる物事が多岐に渡っていることと、きちんと邦訳されることなくカタカナ語として氾濫しているせいで、少なくとも僕自身はそれに翻弄され、そして少しくたびれている。

以前から僕は「LGB」と「T」を一緒くたにして語ることに違和感を持っていた。けれど僕が知っていたのはせいぜいがそのくらいで、それならとネットで検索しただけでおびただしい量の情報が目の前に展開される。正直なところ、この問題に深い関心を持っていなかった僕はトランスジェンダーとトランスセクシュアルが異なるものであることすら知らなかった。解像度が極めて低かったのだ。

党のポストにリプライしてくれたアカウントから、おそらく当事者であろう人のタイムラインを遡った。そういうアカウントは、どこかやるせない雰囲気で、伝わらない想いのもどかしさに苛立っているように見える。自身がトランスジェンダーであることを簡単にカミングアウトなんてできないだろう。簡単に公表できるのなら誰も苦労しない。学校や職場では公に出来ない事を話せるのが匿名のアカウントだけであるなら、なおさら彼らの発言を素通りは出来ない。

僕は人間は他人を幸せにすることはできないと考えている。そして付け加えるなら、誰かが辛い思いをしている時に自分だけが幸せになったりもできない。人間に出来るのは、他人の幸せを祈り、誰かが苦しんでいる時にそばにいて、その重たい荷物を少しだけ一緒に持つことだと思う。

アウティングという言葉を知った。
誰かの秘密を本人の了解を取らずに公表する。本人が望まないカミングアウトを、他人が勝手に行う。
それが善意から発せられるものであろうと、悪意で行われるものであろうと、本人が望まないところで秘密が公開される。

アウティングとは主旨が異なるが、これが犯罪の告発などであれば構わないのかもしれない。香川照之の事件や女性自衛官のハラスメント問題などは、告発しなければ被害者は泣き寝入りするしかなかった。

けれど、例えば職場で、上司にしか打ち明けていない性の秘密を、何かの拍子で面白おかしく吹聴されたとしたら。そう考えたら、想像するだけで恐ろしくなる。そして、それを恐れているトランスジェンダーの人々は、おそらく少なくないのだろうと思う。いや、少なくないのではない。多くの人がそれを望んでいなくて、他人からの勝手なアウティングを恐れていると考える方が自然だ。
一切の偏見なくそれを受け入れられるほど、現在の日本は柔軟ではない。少なくとも僕は、それまで親しかった友人から突然打ち明けられた場合に、全く動揺せずに受け止められるかと問われれば自信がない。

先に書いた「あのアカウントは嘘つきだから」と言われてしまう中には、本人が好んで嘘をつくわけではなくて、偽らざるを得ない事情を持つ人たちだって多いはずなのだ。

僕は男性用トイレ、女性用トイレの他にジェンダーフリーのトイレがあれば良いじゃないかと考えていた。けれど、それこそがバカでも思いつく安直なゴールだったのだ。

男性用と女性用に加えてジェンダーフリーのトイレがあったとする。僕は迷わず男性用トイレに入る。その時に、それまでずっと女性だと思っていた友人がジェンダーフリーのトイレに入ったらどう思うだろう。

そういうことなのだ。
ジェンダーフリーのスペースを利用するということは、つまり自分がトランスジェンダーである事を公表するということと同義なのだ。いずれは打ち明けようと思っていようと、絶対に秘密にしておきたいと考えていようと、その瞬間に自分が望まない形でのカミングアウトになってしまうのだ。本人が望まないカミングアウトなど、それは絶対に強いるべきではない。結果的にそのようになってしまうシステムであれば、そんなものは拒否されて当然なのだ。

僕は党のアカウントでポストした時、現在の女性スペースを開放すれば良いという着地点はおかしいと考えていた。それは今でも全く変わっていない。女性だけに負担を強いて終わりとするなら、問題解決に向き合わないごまかしでしかない。
けれどジェンダーフリーのスペースを作れば良いというのも、あまりにも安直だった。こんなものは本当にバカでも思いつく。当事者の事情を全く考慮していない極めて安易な着地点なのだ。

僕はどちらかといえば女性スペースを守ることに主眼を置いたポストをした。それが何故なのかを自分なりに考えてみる。

少なくとも身近な女性に尋ねれば、痴漢という性被害の経験は無いと答える人の方が珍しい。それほどまでに、男性から女性への性加害は常態化している。

だから僕ら男性は、電車やバスを利用する際には女性に近づかないように気をつけて、両手で吊革に捕まって、常に無罪をアピールする必要がある。少々飲み過ぎて乗った終電で席が空いていても、うっかり居眠りしてもたれかかったりしないように、隣が女性であれば眠くたって疲れていたって座らない。夜道で女性が歩いていれば、わざとゆっくり歩いて距離をとるか、思い切って小走りに追い抜くかしなければ不安でならない。エレベーターに乗った時に、中にいたのが一人きりの女性であれば、その人に背を向けて扉の前で息を止めて目的階に到着するのを待つ。

何故、女性がいる空間でこれほどまでに気を遣わなければならないのか。
それは僕が男性で、女性から見れば男性だというだけで性加害者かもしれないという疑惑の対象になり得るからに他ならない。

僕自身は愛する子どもやイヌに誓って、痴漢行為をしたことはこれまで一度も無いし、この先もそんなことはしない。けれど、世の中の多くの女性は、見知らぬ男性と密室で二人きりになることに恐怖を感じるという。性被害を受ける可能性がゼロではないからだ。

そして僕が憎んでいるのは、同性の性加害者だ。この世に痴漢がいなければ、僕たちは男性だというだけで女性に緊張を強いることが無くなる。この世から性暴力が無くなれば、僕たちは見知らぬ女性が数メートル先をゆく夜道でも鼻歌を歌いながら千鳥足で歩ける。世の中の多くの男性は、痴漢やレイプ、盗撮といったあらゆる性暴力を憎んでいる。だから一部の野党が女性スペースの開放を言い出した時に、僕は腹が立って仕方がなかった。女性スペースを開放することで性暴力による事件が発生したら、今以上に僕ら男性は肩身が狭くなる。女性スペースは絶対に守らなければならないのだ。「メール一通で性自認を変更できるようにしよう」という政策など噴飯ものなのだ。

我々男性が安心して暮らせる社会のために、女性が安心して利用できる女性スペースは死守しなければならない。

ここまで書いてみて再確認した。
つまり僕は性自認を偽って女性スペースに侵入した男性が、女性に性暴力をふるうことを恐れている。実際に性自認の問題で苦しんでいるトランスジェンダーの人々の事よりも、それを都合よく利用して性加害を企てる同性を警戒している。

だから実際に辛い思いをしている人々のことを深く考えずに、ジェンダーフリーのスペースがあれば解決するなどど安易に考えていたのだ。自分のポストが誰かを苦しめるということを、もっと慎重に考えなければならなかった。

今、この瞬間、トランスジェンダーと女性スペースの問題をどのように解決すればよいのか、全くアイデアが浮かばない。
少なくとも現在の社会の状況のままで、女性スペースを開放することには反対だし、メール一つで性自認を変更できるという政策も受け入れられない。

けれど、実際に辛い思いをしている人たちがいる。それは僕が気づかないだけで、隣で微笑んでいる誰かかもしれない。それならば、まずは僕自身が変わらなければいけない。社会を変えろ、システムを変えろと叫ぶ前に、まずは僕自身がこの問題をどう受け止めるのか。

そしてこの問題について、すぐそばにいる誰かを傷つけないように慎重に、でも顔をこわばらせたりせずにざっくばらんに、誰も独りぼっちにならないことを祈りながら、まずは親しい友人と話してみようと思う。友だちの意見を聞いてみたいと思う。

誰かと話すことで気がつくことが沢山あって、この問題でもTwitterのアカウントを遡って感じたことが多い。

Twitterはどうしたって短文で、殺伐として傷つけ合う雰囲気になってしまうことも多いのだけれど、馬鹿にしたり、上から目線だったり、冷笑、嘲笑したりせずに、きちんと想いを伝えることは不可能ではないと思っている。問題そのものについて語らなくても、好きな映画や音楽の話題だって、心がほぐれるはじめの一歩になるならそれでいい。そうやって個人と個人が柔らかく繋がっていくことで、社会が穏やかな空気に包まれていけば、今は思いつきもしないような解決方法が生まれるかもしれないし、そうなったらいいなぁって思う。

この問題について、まずは一回目。
いつかもっといい解決方法が見つかったら、その時は真っ先にポストします。