イヌと

日々

うちのイヌと大家さんちのイヌ
大家さんちのイヌが今日も朝からずっと吠えている。
キャンキャンと悲鳴のようにも聞こえる声。

どこだかのペットショップで買われたトイプードルは、はじめの頃こそチヤホヤと可愛がられていたけれど、大家さんたちはいつの間にか興味を失ったようだ。
大家さんの家族は誰も散歩に連れて行かない。
構ってくれるのは親戚の子どもだけ。
その子も自分でネコを育て始めると、イヌに会うために大家さんちを訪れる頻度はぐっと少なくなった。
あまりにも一日中鳴き続けるので、大家さんの代わりにうちのイヌと一緒に散歩に連れていくようになった。

一切の躾をされず、要求吠えに対してオヤツを与える以外の対応をされなかった大家さんちのイヌは、典型的なアルファだった。
他のイヌや人間に対して吠える。気に入らなければ噛みつく。小便をかける。
だから当然、散歩に行った先で出会う他のイヌたちに嫌われる。
相手にされないから自分勝手に帰ろうとする。

少しずつ、少しずつ、ダメなことを教えた。
他のイヌにしつこく絡んだときには引き離して叱った。
叱られることに慣れていないから、暴れて噛みついて抵抗する。
僕が攻撃されていることに気づくとうちのイヌが怒ってしまうので、血の滲んだ手に噛みついたまま唸るイヌをゆっくり撫でながら落ち着かせる。
何をしてはいけないのか。
どういうときに僕が叱るのか。
それを少しずつ伝えた。

「おいで」が出来たら思い切り褒めた。
「まて」が出来たら思い切り褒めた。
浜の友だちも手伝ってくれた。
僕の呼びかけに応じて大家さんちのイヌが駆け寄ってきたときには、その場にいた全員で褒めて撫でた。
数ヶ月も一緒に散歩をすると、イヌは見違えるようになった。
他のイヌたちとも仲良く遊ぶ。
「おいで」も「まて」も当たり前のようにできるようになった。
イヌに教えるのは「おいで」と「まて」で充分だ。
うちのイヌと並んで浜に行って、うちのイヌと一緒に帰ってきた。

「散歩に行くと足が汚れるのよねぇ…」
ある日、散歩から戻って大家さんのもとにイヌを返しにいった時のこと。
それまでも二週間に一度くらいの頻度で、大家さんちのイヌをお風呂に入れていた。
うちのイヌは海に飛び込んで泳ぐので、特に夏場はほぼ毎日お風呂に入れている。
大家さんちのイヌは泳がないから、小まめにブラッシングすれば月に二回のお風呂で問題ないはずだ。
雨の日の散歩のあとは足を拭いてから返しているし、汚れが気になるということもないと思っていたけれど、その辺りは人間の感覚なのでそれぞれ違って当たり前だ。

散歩のあとのお風呂は、一つめんどうなコトがある。
二頭を一緒にお風呂に入れるのだけれど、大家さんちのイヌは順番を待てないのだ。
汚れたままで家の中を歩き回られては困るから、どちらかを部屋で待たせておくことはできない。
一緒に浴室に入れて、シャワーで大まかに汚れを流してからシャンプーして、それをすすいでからタオルで拭く。
同時並行で二頭を洗っているのだから、どちらか片方は待っていることになる。
冷えてしまうといけないので、身体の小さな大家さんちのイヌをタオルドライしてからうちのイヌを拭くのだけれど、大家さんちのイヌ自分が終わってしまうと浴室から出せと吠える。
まだ泡だらけのうちのイヌに飛びついて、自身も再び泡だらけになる。
狭い浴室に甲高い小型犬の鳴き声がこだまする。

散歩に行ってイヌの足が汚れるのは当然だ。
汚れたら拭けばいい。洗えばいい。
それが億劫ならイヌと暮らすことはできない。

「散歩に行くと足が汚れるのよねぇ…」
「じゃあ散歩に行かない方がいい?」
「そうねぇ。汚れた足でベッドに上がられるとねぇ…」
「わかりました。じゃあ散歩に連れて行くのは今日までということで」

大家さんの本音は分かっていた。
要するにうちのイヌと同じように毎日風呂に入れて欲しいのだ。
けれど一頭が二頭になると、風呂に入れるために必要な時間は二倍では済まない。
現役世代なので僕は当然仕事をしている。家事もある。
その上で他所のイヌの面倒をみて、更に汚れると文句を言われたんじゃ溜まらない。

イヌは一緒に暮らしている人間と気持ちが通じる。
僕と大家さんのイヌに対する考え方の違いも伝わっている。
大家さんちのイヌは、僕とうちのイヌを見かけると吠え続けるようになった。
あれだけ一緒に遊んだのだ。
いつも一緒に散歩をしたのだ。
「なんで連れて行ってくれないんだ⁈」
僕は大家さんちのイヌから目を逸らすようになった。

朝の散歩。夕方の散歩。お風呂。それから食事。
イヌと一緒の暮らしには、イヌの為に費やす時間がある。
根気よく躾なければ人間社会で暮らせないイヌに育ってしまう。
普段の様子や便の具合は健康状態を確かめるために人間が観察しなければならない。
何しろ手間がかかるのだ。
それでもイヌと一緒にいたいのだ。

イヌと散歩をすることは楽しい。
お風呂に入れることは楽しい。
嬉しそうにゴハンを食べてくれれば、こちらも嬉しい。
ハーネスを手に取った僕の周りではしゃぐイヌ。
遊んで欲しくて僕の膝にアゴを乗せて甘えるイヌ。
右手で本を読みながら、左手でイヌを撫でる。
ベッドに入れば、すかさず身体を寄せてくる。
遊んで欲しいとき、おなかが空いたとき、撫でて欲しいとき。
「今は仕事中だからあとでね」「じゃあ庭でボール遊びしようか」「ゴハンは食べたから少しだけオヤツをあげるよ」
イヌの要求に応えられる時ばかりではないけれど、絶対に無視はしない。
人間と同じ。無視はダメージが残る。信頼を失う。
「あとで」と言ったら、絶対にあとから時間を作る。
そうすればイヌは待っていてくれる。
手間と時間がかかってもイヌと一緒に暮らす。
それは単純にイヌが好きだから。
自分が一緒に暮らしているイヌのことが一番好きだから。

大家さんちのイヌがずっと吠えている。
イヌは飼い主を選べない。